いきなりです。
今ある変えたい世界観がA。
呼吸のニュートラル®や自然呼吸によって得られる感覚がB。
自分なりの本来の世界観がC。
だとします。
人は、よくもわるくも今ある世界観によって自分と自分の周囲の現象を作り出しています。
となると、変わりたいと願っている今はAになります。
自分とは何かを追求した時に行き着きたい世界観はCということになります。
問題は、そこに至る道(呼吸・整体においてはB)です。
A、今ある変えたい世界観
今ある変えたい世界観、変えたくなければ読む必要なしです。
生まれ持った資質D、Dに基づく体験、そこに他の生まれ持った資質を持っている人間の関わり(過去、直近、今などがある)、その時の常識、という感じで構成されています。
生まれ持った資質とは、生まれながらにしてその人それぞれにある方向性です。これは様々な方面で言われている事ですのであまり詳しくは話しませんが、ここではある、ない、という論点ではなく、ある、という前提で話を進めていきます。(ない、という前提をお持ちの方はこれ以上読む必要なしです。)
人間は生まれ持った資質、ある種の方向性があり、それに即した形で様々な体験が向こう側からやってきます。能動的に見える選択による体験自体も向こう側からやってくる体験と捉えます。
それは場合によっては魂が体験したい事を肉体を持っている人間にさせている、という表現もできます。
純粋のその体験だけをし続けていればよいと言えば簡単ですが、そこには様々なモノコトが影響してきます。
「私」と同じように「私ではない人」にも生まれ持った資質があり、方向性があります。よって特に幼少期は両親やそれに近い関係の人間の資質、方向性、選択の仕方に大きな影響を受けます。
また、その時代における常識、コミュニティの常識など様々なモノコトに影響を受けて育っていきます。
その中で、自分の資質、方向性に順じた選択をする場合もあれば、そうではなくそう言われてきたから、それが常識だから、という選択もあれば、無意識的に誰かの価値基準を使っている場合もあります。
このように、自分の資質、方向性に準じて決めている部分と、そうではない部分が混在化して大人が形成されると現実的には言えるかもしれません。
その混在化された今ある自分がとてつもなく苦しい場合は、またはしっくりこない、違和感がある、という場合は、自分の資質、方向性との乖離が許容限界を超えている、超えそうな状態であると言えます。
今変えたいと願う世界観というのは、このような感じです。
B、呼吸のニュートラル®や自然呼吸によって得られる感覚
呼吸のニュートラル®や自然呼吸という概念は、結論から言えば、そういう意味で整理整頓のツールとなります。
どういうことかお話していきます。
既に資質があり、方向性が自分自身に生じている以上、必要な事はそこへのアクセス方法です。
自分自身の資質、方向性にアクセスする条件は、人間として成立すること、であると考えています。
人間として成立することとは?
人間は、わかりやすさを優先して言えば、本能と理性があります。もっとわかりやすく言えば、本能をベースとした考える動物です。
人間の成立とは、本能と理性の両立であり、調和です。(その調和の指標が呼吸のニュートラル®)
ここでのポイントは、それぞれを使い分けるというよりもそれぞれを一体化させた上で体験・運用していくということになります。さらに実践的に重要なところでは、一体化させた状態を体験することの数と頻度が重要です。
自分自身を人間として徹底的に運用していった先に現れるのが、自分自身の資質、方向性となります。
なぜ、自分自身を人間として徹底的に運用していくと現れるのか?
まず呼吸を通して自分自身の身体の動きを徹底的に洗い直していきます。物をとる、座る、立つ、振り返る、などです。
自分の一挙手一投足を自分仕様(呼吸のニュートラル®仕様)に変えると、呼吸が浅くなったり、荒くなったり、止めたりする機会が減ります。身体的な雑音が少なくなり、肉体的に「静」の状態ができます。
次の段階としては、というよりも、身体的な雑音が少なくなってくると、感情の動き、ざわめき、が自然と気になるようになります。
そこでも、呼吸のニュートラル®でいるということを優先していくと、それらは循環していきます。
肉体的に静をつくり、感情を循環させる、という事ができるようになってくると、心身をうまく運用できている、という事が言えてきます。しかし、これはあくまでも心身の運用がうまくできているということであって、自分の資質、方向性に適った運用までは至っておりません。
C、自分なりの本来の世界観
が、心配要りません。
心身の運用がうまくできてくると、呼吸がかなり繊細化されてきます。
すると、自分のすべきではないこと、他者の価値基準を使おうとした時、感情が煽られただけの時、などいわゆる自分の資質、方向性ではない世界観を使おうとすると、それに気付きやすくなります。
*注意すべきは身体的な突き詰めをして経験を積んでおかないと単なる好き嫌いになって逆に苦しい世界をつくることになってしまいます。
その具体的な指標が呼吸を基準につくられた自分自身の「調和感覚」です。
これを得て、運用を続けて、慣れていくと、誰もが良いと言っている事でも自分自身の資質、方向性に順じた判断ができるようになってきます。他者や情報に振り回される事が激減します。自分の役割というのもその延長線上に感じることです。
この話の最初にアクセス方法と書きました。
しかし、アクセス方法ではなく、アクセスされてしまうもの、と考えた方が正確です。
私は、身体調整は突き詰めるとここに至る、と考えています。
呼吸・整体を例え、身体的にのみ実践していっても、こういった概念を事前に説明しなくても、実践していった先に辿り着きます。講習に来ている方、クライアントさん、共に実践レベルが上がってくると向こうから人生の岐路や違和感、モヤモヤ、そんな話をしてくるようになります。
私自身、最初は単純に自分の病気を治したいからやっていた事でしたが、突き詰めて実践していくうちに自然とそうなりました。
そうならなくても、そうなっても別によいのですが、そうなる人がほとんどだという事実が私の目の前にはあります。(潜在的にそこまでの意識を持っている人が集いやすいという側面もあります。)
そうなると分かる人にはわかりますが、単純に肩こり一つとってもそれだけではないということになります。
もっと言えば、こういった概念と医療の線引きは難しく、私自身治療をやめたのはその線を引きたくない、引くということが私ではないという判断からです。(社会的に見れば、線引きは多少の矛盾があってもした方がよいとは考えています。)
話を戻します。
と言っても、もはやどこに戻していいのかさっぱりわかりませんが(笑)。
こう書いてみます。
今ある変えたい世界観がA → 私
呼吸のニュートラル®や自然呼吸によって得られる感覚がB → Cを教えてくれる師匠
自分なりの本来の世界観がC →答え
最初からこう書けばよかったかもしれませんね。
こう考えるとおそろしくショートカットされるということになります。
往々にして人はAという世界観をグルグルと使いながらCを目指します。
人によっては自分以外の他者からアドバイスを求めることもあります。それも有効ですね。
自分自身でやる場合、というよりも基本は自分自身なのですが、Aの世界でグルグル考えるのではなく、Bに教えてもらう、教えてもらいまくる、カンニングしまくる、という感じです。
Aも自分、Bも自分ですが、より資質、方向性に近い自分に聴くということになります。
で、まず変えてしまおう。という考えです。
Aで納得しながら、ではなく、まず変えてしまおう。です。
その時は?ということがあるかもしれません。
でも、変えてしまおう、です。
ここでAの世界観をフル活用させていってしまうと、師匠の教えてくれた答えをAで染め上げることになってしまいます。後はいちいち一つ一つの作業で足踏みが起こります。つまり、Aを出し過ぎるとそれがかえってブレーキとなります。
マイペースという言葉が指し示すものはブレーキである場合も多々あります。ブレーキは安全装置ですが、踏み続けていれば前に進めません。アクセルを踏めとは言いませんが、まずブレーキを離せば前に進みます。
さらに、理解、という言葉は何を指しているのでしょうか?
ほとんどの場合、理解した、というのはAの世界観が、ということになります。
何を?というところの何という存在は理解しようとした瞬間にAという世界観の色に染め上げられます。
つまり、いくらAの世界観で理解を積み重ねてもそれはAの世界観から出る事はなく、その中で循環することに
なります。変わろうと思って変われないのは、変えたいそのものを使用しているからということになります。
その中で、ではこういう視点で、ではこういう風に考えては?というように自分の中で考えを巡らせるとどうなるでしょうか?
Aという世界観をフル活用させていますので、Aという世界観を強化することになっても、新たな世界観に行くつく
可能性が低いことになります。
取り入れる、というのも、誰が選択をする?ということになります。
Aが取り入れる、取り入れればCになるのか?
Aです。Aという世界観の元で、都合の良い部分は採用され、都合の悪い部分は採用されません。もしかしたらCという世界観では、Aで都合よいものが都合よくないものになるかもしれません。
結果的にAでしかないということです。
ここで押さえておきたいのは呼吸のニュートラル®や自然呼吸で得られた感覚を世界観Aで染めないこと、です。
実践して落とし込む前に、せっかく得た答えを自分なりというAの世界観で解釈し過ぎてしまうとするとどうなるかということです。
元の木阿弥です。
最近は、素直になれ。まずやれ。考えるな。質問なんて100年早いわ。という教え方は不親切極まりないと感じる方が多いようです。
素直になれ。まずやれ → Aを使わせない。
考えるな → Aで考えるなということ。
質問なんて100年早いわ → Aから発している質問は意味ないということ。
実際のところは最も親切で、合理的で、効果的な方法なのかもしれません。
ちなみに最後、落ちるところまで落ちた人、悩みぬいて本当のスランプに陥った方がなぜこういう学習において修得する率が高いのかと言えば、
Aが崩壊しているから、Aを使えないから。
です。