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コラム

2020.06.19

動と静〜身体性視点から〜

「一旦停止。」

 整体の師の元で手技を学んでいた時に数え切れないほど言われた言葉の一つ。

 わかりやすく言えば、技をかける時に一旦停止を入れないと動きが流れるから不十分になるというもの。もちろん術者も無理が生じ、力む、息止を起こす。

 ではこの一旦停止とは何を意味するのだろうか?

 私なりの視点を一つ言えば、グラウンディングのことを指す。

 グラウンディングをわかりやすく言えば地に足をつけるとも言う。

 意識を肚に落とすとも取れる。

 ではそれは何を意味しているのか?

 人間の身体には動く際に力学的な方向性(以下、力の方向性)が生じる。

 力の方向性を理解するには、生じているもの、生じるもの、の違いが肝要となる。

 生じているものとは、わかりやすく言えば重力や自然に生じている力を指す。

 生じるものとは、人間が動く際に生じる力を指す。

 地に足をつけるとは、生じているものを考えれば、無駄な事をやめればできているものである。

 ではなぜ地に足がつかない状態になるのかと言えば、生じるものへの対処がうまくいかないからと言える。

 話が少しそれるが、力が抜けているというのは生じているものに対して無用な抗いを起こさない事と言う事もできなくはない。

 生じるものとしての力の方向性はその動きが終わった後も身体には残存する、時間と共に消えゆくものではあるが、一定時間残存する。

 その残存した力の方向性をそのままに次の動きに入ると、その動きは残存した力の方向性の影響を受ける。

 技の場合は、手先や方向性に乱れを生じる原因となる。

 さらにそれが残存した状態で次にいけば、さらなる影響を及ぼす。

 そうなると、身体の中には複雑化した力の方向性が残存し、それが高頻度、長時間になると、身体の安定性は損なわれる。

 当然、無用な力への抗いは慢性化し、いわゆる慢性的な凝り、歪みなどへと繋がっていく。

 ようやく本題に戻れば、一旦停止とは、一つ一つの動き、工程において、力の方向性のリセットをかけているという解釈ができる。

 さらに動きに習熟すれば、動きながらリセットをかけ続けることができる。

 それが生じているものを常に作用させながら動くということになるが、生じるものを常に生じているものに吸収させながら動くという言い方もできる。足腰を使うことの本当の意味であり、また脊椎に力を通す(脊椎を立てる)感覚や脇のつくり、頭の位置や眼、横隔膜対応脊椎などの言ってしまえば全身的な身体感覚が求められる。

 その意味においては一旦停止はわかりやすい。

 動くことを動と捉えれば、一旦停止は静である。

 これが日常の中で馴染んでくると、動と静の境界線が徐々に薄くなり、結果的に流れて動いているようにみえるが、それば静の構築の結果でしかなく、本当に流れているわけではない。

 一旦停止をグラウンディングする、だと捉えれば、常に生じるものへの対処ができていれば、グラウンディングし続けられている、ということになる。

 何事もそうだが、気付くのはそう難しくはないが気付き続ける自分でいるのは難しい。

 グラウンディングするのはそう難しくはないが、グラウンディングし続けるのは難しい。

 一旦停止は力の方向性の対処。

 ただ一点、動きが止まってもダメだということはこれまでを読めばわかるかもしれない。

 力の方向性の生じるものを治めるというのが一旦停止の肝だ。間違っても形の停止とは捉えないことが大切である。

 そういう意味で言えば、絶対に技術修得の初期はそこをおろそかにしてはいけない。一度ついた癖をとるのはかなり難しいからだ。

 最後に、これらがしっかりできて応用することを自己流、これらが不十分で応用することを我流と言える。

 我流には気をつけた方がよい。