第16回コラムは“力”という存在と、身体調整における際に大切にしている事を通して考えてみたいと思います。
■コラム概要
1、形ではなく力を読む。
2、通っているか?通っていないか?
3、繊細な感覚体系のつくり方のコツ
1、形ではなく力を読む。
いきなりですが、私が今まで学ばせていただいた先生方の姿勢は多種多様でした。背中が丸く顎が前に出ているいわゆる”いくび”という先生もいましたし、胸を張っている先生もいました。
全員に共通するのは慢性的な不調はないという事実だけです。
そこから何が考察できるのか?というところになります。
私はあまり形にはこだわらない、結果的にその人なりの良い形になればいいと思っているのですが、これは元々学んでいた身体観に姿勢分析というものがほとんど存在しないということもあるのかもしれません。
ちなみに、今こうやってパソコンを打っている最中の姿勢は、骨盤後傾・腰椎後湾であり、脚は組んでいる状態です。
小・中学生の頃からこういう姿勢を取る事が多いですが、実際に慢性的な腰痛や肩凝りはありません。また、うつ伏せになって本を読んだり、ゲームをしたりする事も多いのですが、特段問題はありません。
かと言って、それをすると症状が出たり、悪化したりする方も確実におられます。その違いは何なのでしょうか?
私なりの結論は“身体内部に生じる力が留まらずに通っているかどうか?抜けているのか?”ということになります。
力が通る・抜けるという表現にピンとこない方もおられるかもしれませんが、要するに身体内部に生じるエネルギーということになります。
それが常に循環し、ひとところに留まり続けないことが大事ということになります。それがどこかに留まり、それが微細に継続した状態が“力む”ということになります。
身体を考える上で、大事なのはその”力”が通っているかどうか?抜けているかどうか?であり、良いと言われる姿勢でも力が留まっていればまずいですし、悪い姿勢でもその姿勢で力が通っていれば100%とは言えませんがとりあえずOKです。
ダメだと言われている、座るときに骨盤を後傾させても力が通っていればそんなに問題なく、逆に力が留まっていれば良いと言われる姿勢でもダメです。
ちなみに呼吸というのはそれを教えてくれるものであり、人間は自分にとって無理なのか自然なのかは呼吸に繊細に反応させます。
呼吸はさておき、大事なのは外見だけではなく、どんな身体の中の力の状態に応じた外見なのか?ということです。
確かに形は身体内部の力が表現されたものという見方も言えますが、人間が成す絶妙な力加減は形だけで読み取る事が困難であると言えます。
2、通っているか?通っていないか?
何事も固定すると留まりやすく循環が起きにくくなります。人間にとって中心ができているというのは右にも左にも前にも後ろにもいける状態でいることであり、同じ形で留まることではありません。
それは入口は何であろうと感覚的に身につけるほかなく、そのためには感覚を磨く体験とトライ&エラーが必要です。
そうやって少しずつ自分の身体を知り、研ぎ澄ましていくことが身体作りだと私は考えています。
最初に述べたように、私の師の一人は柔軟性がなく、胸を張っています。でも不調はありません。それは身体の中に力が通っているからであり、その状態でも通せている証です。
身体が硬くても力の通し方を感覚的に知っているのです。
それをしてもっと柔軟性を、もっと背骨はこうなどと変にいじくってしまうことによって微妙な感覚系が乱れ、逆に力が通らなくなり不調和を引き起こしてしまう危険性があります。
力を通すということにおいては柔軟性や形は絶対条件ではありません。柔軟性をつけるというのは力の通る限界域を必要に応じてつくることであり、単に域を広げることではありません。それはあくまで必要に応じてやればいいわけです。
例えば、ヨガを研鑽する場合は必要な体位を実践するために力の通る限界域を広げる必要があります。返して日常生活を支障なく暮らすためには限界域を広げるというよりも日常の動きの中で力を通すという事ができればいいということになります。
域を広げることを絶対条件にしてしまうことが事をややこしくしてしまうと考えています。
域を広げないとダメ、ということになってしまうからです。
大事なのは力が通っているかどうか?であり、それらを感覚的に磨き、自分のどんなときに通らないのか、通りにくくなるのか、ということを体験の数と期間を通して学習し、日常に落とし込んでいくことに意味があります。
そうやって自分自身の微妙な感覚体系をつくっていけば、そんなに焦ることも、知識に振り回されることもなく、生きていくことができるのです。そして、この考え方に呼吸を使うともっと楽にマネジメントできるようになります。
3、繊細な感覚体系のつくり方のコツ
繊細な感覚体系は天才でもない限りは、色々と学ぶよりも一つの事を突き詰めていく方が身につきます。
私がよくもったいないと思うのは、ある程度何等かのスキルを身につけたら、次の何かを学び始めてしまうことです。
繊細な感覚体系は、慣れるという段階ではつくれません。慣れてからが本番ということになります。
しかし、一定程度何となくできるようになって次に行ってしまうと、また次の何かで慣れ、慣れたら、また次、というような感じになってしまいます。
繊細な感覚体系は、慣れて、無意識レベルまで落とし込んで、楽しいとか、楽しくないとか、そういう次元で語れなくなった頃が良い感じで構築できると考えています。
そうして、ある一定の深さに到達すると、その深さではいっけん関係がないような様々なモノコトが一気に繋がり始めます。横に広がるというイメージです。
慣れる、という段階では横には広がらず、それぞれが単体の”穴”のような感じになり、いくら異なる場所で穴を掘ったとしても、掘りが足りなければ横には広がりません。
慣れると少しの余裕が出てきます。その余裕を他に向けるのではなく、もう少し掘ってみること、もしくは他に目を向けてもよいので、今掘ってきた穴を継続して掘り続けることが大事です。
横の可能性ばかりに目を向けてしまい、本当はもう少し掘っていけば横に広がるのに、という惜しいところでやめてしまう状態である事が多いです。
私はいつも「やる意味を見失った頃あたりから本当の勉強が始まる。」と言います。しかし、多くの方はそこで止めます。
そこに大事なものがありますが、現代のように様々な手法が魅力的に陳列されている状況では難しいというのが現状かもしれません。
最後に、
人の身体はそんなに簡単に論じられるものではなく、
人間は相当に器用な生き物ですので、人それぞれに現実的な機能形態というものが存在しており、
それらをいくつかの理想論で縛り付けること自体が不遜な事であり、みるべきはそこではなく、その人なりの繊細な感覚体系であり、
そうすると、人が人にどのように関わるのか?という事は本当に難しいと日々感じており、ほんの少しでしかなく、そして日々勉強です。
その事を知る最低条件には、人に健康を説く人間が、自分自身に繊細な感覚体系を持つことであり、それを基本に他を尊重することができる、それがないと、理想論を押し付けることになります。