21
コラム

2018.08.27

メソッドとしての精神のおきどころ

 呼吸・整体では、調整する際に肉体・精神・意識をみています。

 身体調整というのは肉体、精神調整というのは精神、意識の調整というのは肉体と精神をつくりだす大元の意識となります。

 これは分ける必要性は本来なく、またない理由は、往々にして古来の身体調整にはこの3要素が自動的に入っている。自動的に入っているものを身体調整を呼んでいると解釈することもできるからです。

 これはあくまで私見ですが、現代における細分化された身体論、精神論とは少し趣が違い、本来それらを包括して一つの機能体、人間としてみるという事が自然にできていたのかもしれないと考えています。

 しかしながら、ここであえて分けることによって見えてくるものもありますので、分けた次第です。

 もちろん、一つ一つを細分化する意味は大きく、それによって様々な恩恵にあずかっているのが私達ということになりますが、その一方で細分化する事によって全体観が見失われていったという事も言えるかと思います。

 物事が進化するプロセスの中で、分かれるという現象は不可避です。これが細分化であり、分かれていった先には分からなくなるという現象に行き着きます。

 分からなくなるところで必要になってくるのはそれらの統合、全体観、一つのビジョンではないかと思います。

 生まれて、伸びて、分かれて、分かれなくなり、統合されて、機能し、限界に至り、滞り、腐り、破壊され、また生まれる、というような循環はある種、いつの世も必然として起こる現象でありますので、何かを悪、何かを善と決める事はあまり意味を持たない事だと考えるところです。

 組織にも、人間にも、人間の身体にも、大なり小なりこういった循環は影響しています。

 故に、話を身体に変えれば、未来永劫何ら不調のない身体などというものは、ある種の幻想に近いものがあります。

 これが固定した健康というものを目指すのではなく、循環の中で変化変動する自分自身に適応し、適応する中で自分の中心を常につくっていくという動きの中の釣り合いをはかる技能を磨いた方がよいと思う所以です。

 それが自分の中で不都合のない範囲で循環する状態であればよいと考えており、だからこそ、不調のない身体というよりも、不都合のない身体というものを目指すとコンセプトとして私は提起しています。

 その技能の中核になるのは、自分自身の変化を察知する力、気付く力であり、同時に気付きながらも自分の中心を構築する力でもあります。

 養生法というのは、そこを鍛えていく作業になります。

 その技能を身につける段階で、大きく分けて3つの視点が最低必要であり、それが肉体・精神・意識ということになります。

 今からお話することは、人に何かを伝える、身体に従事している、自分自身を深く追求している、そのような方にはおそらく参考になることかと思います。

 今回は精神について少し話します。

 この話は、あるメソッドが肉体・精神・意識、どの要素が色濃く出ているのか?という観察から始まります。

 実は、今現時点で言えば、人に受け入れられる要素の大きいメソッドの多くは精神エネルギーを多く使っています。

 精神エネルギーとは、文字通り精神に作用します。精神とは人が何かを判断したり、選択する際に、その決定に非常に大きな影響を与えるエネルギーですので、いわばここの発信は人が集まるか集まらないかに直結する部分でもあります。*ここでいうエネルギーとは単にその力というように捉えてください。いわゆる俗に言うスピリチュアル的なエネルギーとは違います。

 例えば、人が何か買うという動機にはそれが大きな金額であればあるほどに少なからず感情の高揚があると思います。

 これは精神エネルギーが大きく動く事によって決定するということになります。

 また、例えば、感情の高揚というよりももうこれはやるしかなく、やらない選択肢はない、というような肚の座ったようなしっくりきて決定するのは、意識が働いています。

 身体調整で言えば、心地良い、自然に、循環する、一体となる、大丈夫、そういった思想や言葉を一定のイメージをもって多用するメソッドは直接的な精神エネルギーを使った身体調整となります。

 また、その考え方のおいて、例えば表現が詩的であり、例えば情感豊かな表現をしている場合、例えば人の精神エネルギーを動かす事に長けた発信においては間接的な精神エネルギーを使った身体調整となります。

 いずれにしても、その精神エネルギーに人は反応し、動きやすいものです。何かが広まる背景には必ず精神エネルギーの動きが大きく関わっていますし、

 これは私も含めて、誰もが意識・無意識問わず使うものですので否定の対象にはなりません。

 ただ、一点懸念があるとすれば、精神エネルギーに頼り過ぎたメソッドは依存を生み、自立を促しません。

 はっきり言えば、精神エネルギーが強すぎるメソッドは錯覚を起こします。

 満足感があり、気分もよいです、感動もします、言い換えれば、本質的には何ら解決していない事が精神エネルギーによってかき消されてしまうということで、変わったという気分が生じているが、何も変わっていないという現実があるということになります。

 その場合、何も変わっていない現実に戻ると、また変わったという気分を味わいたくなり、またその場を求めることになります。これが依存です。

 その場に長く居続けると、同じような方がいますので、いつしか変わらない自分を肯定し、目的が、変わる事からその場を守る事に繋がります。

 本質的に自分を変えていきたい場合において、その作業を熟知している方からみれば、この精神エネルギーは甘い罠という認識する方が多いところでもあります。

 非日常を標榜するメソッドやサービスで、依存を是としたり、自立云々ではなくて、という考え方が提供する側、受ける側が共通認識としてあり、自分なりの道の中で必要な一時のプロセスであると考えればよいのですが、そうではない場合は多くの問題を引き起こすことになります。

 また、自らの解決能力を高める際に、先に言った技能を向上させる場合においては、過度の精神エネルギーでの誘導は逆効果になると私は考えます。

 自分が根本的に変わりたくて何かを選択する時に、それが精神エネルギーの誘導にかかっているのか?本当に自分が求めているのか?という事を察知し、判断する力は精神エネルギーが強すぎるメソッドでは得られない、しかし、その判断する力が弱ければ弱いほどに精神エネルギーが強いメソッドに惹かれてしまうというジレンマも存在します。

 ここを脱する事ができるか否かは、運であり、縁でしかない、というのが今の時点の私の見解です。

 以上となります。

 自分の選択において、精神エネルギーの誘導の強さを観察する事は心しておいた方がよいという結論です。

 精神エネルギーは人を豊かにもしますが、人を窮屈にもします。

 精神をどう扱うかはよくよく考えた方がよいところです。