6
コラム

2015.01.09

“気にしない”を身体技法として考える①

第6回コラム、今回は“気にしない”ということを考えてみたいと思います。

これは、考え方編と実践編を分けて数回に分けて書きます。それではよろしくお願いいたします。

過去の先達、思想家の方達、に関わらずですが、そういった自然療法系の本を拝見していると、“気にしない”というワードや類似のイメージを持たせる、例えば“委ねる”という言葉をよく聴きます。

病は気から、気にしなければ治る。

要するにそういうことで、治るための秘訣のようなものです。

「あぁ、その通りだ」と言う方もいれば、「そうなったら誰も苦労しない」というように全くもって否定にかかる方もいらっしゃるこの類の言葉。

往々して技術を追求する治療家は後者でしょうか。

無視すべき言葉なのか?理想論でしかないのか?それとも嘘なのか?

ここでの話がどのようなお悩みの方に該当するものなのかは第1回コラムをお読みください。

実際に、気にする人でも病気にならない、または病気が治る方もいれば、気にしないと言う方でも病気が治らない方もいます。

但し、一つの身体で起こっていることです。何かの違いがある、何かが起こっていると考えるのが自然です。

気にしない事で病気を治した方と、気にして病気が治らない方の違いは何なのか?

そして、気にしないと称している事を共通点として、治した方とそうでなかった方の違いは何なのか?等です。

このお題は、考える価値があり、しかし統一した答えはない世界だと思います。それを踏まえた上でここからは私の意見です。

私は感覚的には“気にしない”ことでの治癒には賛同できます。

その通りだと思います。

但し、それは最終的に表現された言葉として捉えています。

とかく色々なものを積み重ねてきた方はとてもシンプルに一言で要諦を表現されることがあります。しかし、これは非常に注意が必要です。

その先生がそうおっしゃる背景に、どれだけの積み重ねの量と質があったのかに想いを馳せることができなければ、誤った解釈になりかねません。

格言というのは、そういった視点も加えてみる必要があり、気にしない、委ねる、ありのまま、という言葉はその最たるものであると捉えています。

“気にしない”という最終的な表現、世界観は、とかく精神論的に捉えられがちですが、それはあくまで言葉の印象に過ぎず、私は気にしないということは、身体技法の一つだと基本的には解釈しています。

テクニカルな世界の延長線上にあると考えるようにしていますし、実際にテクニカルにあるところまでは私なりに説明できます。(それは次回)

ここでの提案は、精神論として考えるからわかりづらく、テクニカルな問題として捉えてみてはいかがでしょうということです。精神論を軽視しているわけではなく、双方が一致することが最も効果的ですが、実際はテクニカルな部分の方が重要度は高いと考えます。

私は、自然治癒力・自然体の一側面として呼吸と連動している身体の膨張と収縮というリズムを重視しています。(膨張と収縮に関しては第2回~第4回のコラムをお読みください)

放っといても治る方は呼吸と連動している身体の膨張と収縮のリズムが十分に働いている人。

放っといても治らない方やは呼吸と連動している身体の膨張と収縮のリズムが十分に働いていない人。

と、捉えてみます。

 
自然体というのは、自分の意志とは全く関係なく行われている身体の膨張と収縮というリズムを、自らの動きで制限することなく、そのまま機能させることを徹底して行うというものです。

 
自然体になったのに、気にしないようにしているのに、結果が出ていないのであれば、気分的には自然体で気にしていなくても、どこかで身体の膨張と収縮というリズムを阻害している可能性があります。

気分的に自然である事、気にしないという事と、実際に自然に生じるリズムを阻害していないということは別問題だと言うことです。

 
つまり、その阻害が恒常的に起こっている場合においては、気にしないという心的状況が生まれたとしても、気にしないという身体技法が成立していないということになり、逆に気分的に気にしていても上記の身体技法が成立していれば、それは身体においては”気にしない”という事が成立しているといういっけんややこしいことになります。

では、気にしないという身体技法とは何なのか?それを身につけると何がどうなるのか?という事になります。

身体の膨張と収縮というリズムを阻害することなく、機能させ続けるために何を具体的にすべきなのか?その先にある世界は?

 
という事は次回に。